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2017-08

ちょっとそこまで佐賀県小さな旅③〜吉野ヶ里遺跡 - 2016.01.14 Thu

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鳥栖駅ホームにあった、昔のドイツのレールを再利用した柱。
しかしせっかくの表示板が汚れまくってる。


朝鳥栖駅周辺は晴れていたのに
「濃霧で遅れております」というアナウンス。
行き先は霧が立ちこめている様だ。
武雄温泉へ行く佐世保方面行きの、鳥栖から数駅西に
吉野ヶ里遺跡への最寄り駅がある。
その名も「吉野ヶ里公園」、ドンズバ。
確かに乗って西へ進む程、車窓からの景色は白くなり、
そのうち殆ど何も見えなくなった。よく電車走ってるよこれで…

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こんなシートの車両です。福北ゆたか線にもあるよねコレ
シートの方向転換は、回転式ではなく
シートの頭の所にある取手を持って、前後にシート背面を動かす方式。


160101_1000~01
山手線みたく、折りたたみ座席もついてます

果たして、目指す吉野ヶ里公園駅に着いた時には
駅前ロータリーにある勾玉形の案内板もぼんやりけむっている程
辺りは霧が立ちこめていた。
元日の朝、霧で今自分が降りた駅舎も霞んでしまうような濃霧の中
歩いているのは自分達2人だけ。5分も歩けば、霧でまつげに
水滴が付いている。
田んぼや畑の中の一本道を所々現れる案内板に沿って歩く事
10分弱で、広いそれらしき場所に出る。

こんな日に、寒風吹きすさぶだだっ広い遺跡公園へ朝から行く人なんて
よほどの物好きなんだろう…と思っていたが、
実際この元日に開いている所というのが限られているからか、
駐車場には車が入って来るのが、そして家族連れの姿が
だんだん見えて来た。
時期的にジジババ&帰省中のファミリーが多く
思っていたより人が来ている。
この寒い中、伝統芸能のクラブの人達が太鼓演奏の開演準備を、
公園のスタッフはお餅と甘酒のふるまいの準備に追われていた。
なんでも11時からそれらを開始するらしい。あと10分ちょっと。
なんといいタイミング。

寒さで紙皿に引っ付いた赤米のお餅と
甘酒をいただいて、太鼓をちょっと聴いて入園すると、
東京にいた頃足繁く通っていた立川昭和記念公園
あるいは東松山の森林公園(どっちも国営)を
思い出す風景が広がっていた。
違う所が有るとすれば、川にいる鴨の種類と
下草の青さ、だろうか。
真冬には下草が枯れて、強力な霜柱が昼でも溶けない
あっちとではえらい違いだ。

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(なんかこう雰囲気がよく捉えられているというか…特に鹿のポーズ)

茂みに潜む草木で作られた動物の出来に感心しつつ
「猿が出没しております。注意」の貼り紙が気になる。
イノシシじゃなくてよかったけど…
すぐ見えて来た物見櫓のある「南内郭」に入る。
ここは王などの支配層が住んでいた区域。

吉野ヶ里遺跡は2000年程前の、弥生時代の頃の遺跡といわれる。
弥生時代をイメージしたのであろう衣装を公園のスタッフの
おばさん達が皆着ている。でもトレーナーみたいな厚地じゃないから
なんか見てて寒そうなんですわ。勿論下に着込んでいるんだろうけど。
そのスタッフの人達が来場者に説明しているのを小耳に挟みつつ、
「王の家」や「王の妻の家」「炊事小屋」「物見櫓」などを観て行く。

興味深かったのは、屋根の上やムラの入り口の上に木製の鳥が
飾ってあった事。
鳥といってもバードカービングのように精巧なものではなく、
白木の状態で、形もどシンプルな、彫刻も殆ど無い状態のもの。
これはどういう意味があるんだろう…
アメリカの牛骨みたく何かあるんでしょうが。

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まだ霧でモヤってる吉野ヶ里。高い建物が物見櫓。

家は昔教科書で見た登呂遺跡の竪穴式住居と同様の外見で
(細かい部分は違うのかもしれないがシロートにはわからない)
火矢など撃ち込まれればあっという間に気持ちよく全焼しそうな素材と構造。
入り口は高さが低く、屈まないと入れない。
中に入れば遊牧民のテントの中のようで円形と暗さに落ち着くが
地面より低い造りだから雨続きの季節には心配になる。
寝床はほとんど地べたそのまま。冬サムイヨー(;_;)

王が別の地域から来た客人と面会している場を
顔無しマネキンで再現した家もあったが、
その客人は明らかに海の向こうからの人らしき服装で
どう見ても当時の日本の王の方が素朴過ぎる衣装を
纏っている。まあどう考えてもそうでしょう。

玄界灘の荒波を越えて、文化も技術も進んだ海の向こうの
国からの客人が来るというのは今で言えば宇宙人が来るような
ものだったかもしれない。

この南内郭の先には、「北内郭」がある。物見櫓より重厚な造りの
高床式の大きな建物があり、そこは国会議事堂のような場所だった、と
スタッフの人が言う。
政事をここで行う、偉い人達のための場であり、
卑弥呼のような最高クラスの巫女が占いをした場所でもあったとか。
そしてその建物の横には、それまで見た王の家よりも立派な
高床式の家があり、そこが最高クラスの巫女が住まう家だったらしい。
王が決めるっていっても結局は巫女さんが占った事を聞いてそれを伝えるのが
王なんだよね…この場合何かあったら責任は王がとっていたのか
巫女さんなのか。

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この「国会議事堂」の屋根の上にも木製の鳥がいるんだけど、
その下の牛の角みたいな形の物がどうも某焼き肉屋のマークに見えて仕方が無い。
どうやらそれは船らしい。


この北内郭からほど近い、小さな丘になっている場所に
甕棺を土に埋まった状態のまま保存してある「北墳丘墓」がある。
裏から見れば草の生えた、段ボール草スキーによさそうな小山だが
その反対には実は自動ドアがあって、中に入れる。
発掘時の状態を可能なかぎりそのままにしたこの保存館は
剣や管玉といった副葬品がどんな状態で見つかったのか分る様にしてある。
歴代の王の墓だったらしいのだが、位の高い人は亡くなる時も
当時貴重だったガラスのアクセサリーに青銅の剣を身につけていたので
「王の墓」だと判った訳なんだろうが、これが埋葬された時
副葬品もなければ、あるいは大規模調査が始まる前
うっかり畑仕事の延長で壊され、ぞんざいな扱いを受けていたのかも
しれない。

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中に入ると床下に埋まっている甕棺が丸見えです。特殊技術で実際の土を固め保存。

もっとも、盗掘というべきかどうか、戦前からこのあたりでは
地表に普通に土器などの欠片が出ていたらしいし、おそらくは
大昔から農耕で「何か出て来たけど金目のもんじゃないしな〜」
と、壊されてポイされてた遺物が結構あったんだろう。
「世界遺産に!」と頑張っている福岡県福津市の古墳群だって、
「以前はもっとあったんだけど、気付いたら減ってた」って話だし。|ω・`)
つまり畑とか田んぼとかあるいは家になっちゃったワケですね。

吉野ヶ里遺跡も、1980年代になっていろいろ見つかって大騒ぎになったが
これとてそれより前に「高校造ろう」→「なんかいろいろ出て来ちゃうからやめ」
後になって「じゃあ工業団地造って地元活性化」→「広範囲に何か出て来ちゃった」
→「じゃあ一部はとりやめにして他の場所を工業団地に」→「なんかすごい遺跡のようだ…」→専門家の活動などで重要性が認知される
→「ヤバい、他の工業団地予定地も調査せんと」
となって、本格的に遺跡調査と保存が進んだと聞く。
価値観は時代でも違うから、実はすごい遺跡や遺物があっても
こっそり盗掘や破壊があって、普通に開発されてしまった場所だって、
これまでに沢山あるんだろう。

1980年代から調査が始まった吉野ヶ里遺跡は
公園の敷地がまだ全部調査されたわけではなく、
今後も申請して調査していく、実に気の長い話なんだそうだ。
今迄で甕棺が3千、人骨が300体程見つかっているというが
まだ眠っている数はこの3倍ほどあると考えられている。

160101_1240~01
青い管玉と剣。ここぞとばかり「歴史のロマン」と言ってみる。

面白いのは、出土した人骨から割り出した身長。
男性で平均163〜164センチ、女性で150センチ。
これは当時の南九州や関東圏と比べると、
10センチも高いのだそうだ。
えっじゃあ当時女性の平均、140センチだったの…?
今自分が行けば間違い無く巨人だ。超大型って程じゃないけど。

渡来人の特徴が濃くみられたというが、2000年ほど前の
当時、どの程度渡来人との混血がこの地域で進んでいたのだろうか。
「平均」で10センチも高いとなると、なんか混血というより
完全渡来人そのまんまだったんじゃないかとさえ思える。
中国人街みたいな感じで実は吉野ケ里遺跡は
当時の「渡来人ムラ」だったってことはないんだろうか?

日本人の身長の変遷は、縄文<弥生<<古墳…で古墳時代がピーク
何故か鎌倉時代にかけて低くなり(武士の時代のイメージが…)
幕末ではその鎌倉時代と同じかむしろ低かった、という考察がある。
宗教的タブーの無い時代の方が、狩猟による肉を食べる機会があった
からなのか、混血の機会が減って行ったからなのか。

しかし吉野ヶ里で割り出された数値は、弥生時代というより、
現代を除いてピークだった古墳時代の数値そのままなんだが…
弥生時代であるはずの吉野ヶ里遺跡で、身長は次の古墳時代に
追いついていたという、強力な渡来人影響。
(当時の男女の身長にしたてた、顔出しパネルが南内郭脇の
展示室にあるので、ご興味ある方は記念撮影をどうぞ。
ここの受付のお姉さんはすごく丁寧に説明してくれます)

今福岡で見かける人達は、
平均的に高い身長とも感じないし
むしろ東京より濃いめの、弥生より縄文にやや寄った顔の人を
見かけるのだが、昔は北部九州がどこよりも渡来人の影響を
受けていたという(長崎といい、まあ昔からそうではありますが)
実際の遺物から判る歴史が、なんとも興味深い。

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この甕棺にも剣が。青銅器を造る鋳型も吉野ヶ里では発見されている。

そうそう、例の屋根の鳥の飾り、あれは「鳥形」といい、
アジアの農耕文化での鳥の重要性を示すものとかで
佐賀県の他の遺跡では木製の鳥形が出土しており、韓国でも見られたものらしい。
だからその風習も渡って来たという推測もあって
吉野ヶ里でも建築を再現する際採用したようだ。
何かと言うとご近所の国の事をくそみそに言う人達がいるが、
彼等の文化やDNAも我々の遠いご先祖が間違い無くもらっているという事を
忘れちゃいけないとは思いますよ実際のところ…

吉野ヶ里遺跡の園内は広いのでバスがある。
全部見て回ろうと思えばそれなりに歩くが、幸か不幸か
電車の本数が少ないので丁度いい感じでたっぷり時間をかけて回れた。
(ここに電車で来る人は少数派だと思う…帰りも誰も歩いてなかった)
ちなみに、最寄り駅はもうひとつ、佐世保寄りの「神埼」駅も。
こっちの駅の方が、駅前のロータリーに卑弥呼みたいな像を置いたりして
なんかすごいアピールしていたのを、後で気付いた。
多分距離は同じくらいなので目的に応じてどうぞ。

個人的に見応えがあったのは、
○北内郭
○北墳丘墓の展示
○甕棺墓列(広くて途中で飽きて来た…そして誰もいない…猿出たらどうしようかと思った)

武雄温泉の話は、次回で。

160101_1327.jpg
多少は来ていた来場者も、広い園内でばらければ「誰にも会わないね…」
という事に。歩けど歩けど人に会わないです。


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巨人?

雌型の?
おお、迫力!

Re: 巨人?

> 雌型の?
ズシンズシンズシン


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ケロをこよなく愛する玉川上水ほとりの住人です。
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